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個人的な話

朝日新聞退社報告

2014.9.14

明日15日で「満期」の65歳になるため、昨日13日付けで朝日新聞社を退社しました。60歳の定年後も再雇用でそのまま書き続け、40年にわたる新聞記者人生でした。

1974年に入社し長崎支局、筑豊支局、西部本社社会部、外報部、1984年には中南米特派員となってニカラグアなどの戦場を駆けました。帰国して『AERA』の創刊に参加し、ベトナムを縦断し、東欧革命ではルーマニアの市街戦に日本人記者として一番乗りしました。1992年にバルセロナ支局長となりオリンピックはもちろんユーゴの内戦を取材し、2001年に米国に赴任した2週間後が9・11のテロでした。行く先々で騒ぎが持ち上がり、ゆっくりする暇などない記者生活でした。

30年前にサンパウロ支局長として南米に赴任する途上、ニューヨークの近代美術館でアンセル・アダムスの写真を見て、感動のあまり立ち尽くしました。彼は一枚の写真のために現場を走り回り、その作品が見る者を感動させ「写真の詩人」と呼ばれたと言います。ならば私は一本の記事が読者を感動させる「新聞の詩人」になろうと決意しました。中南米では33カ国を駆け、3年間で飛行機に400回乗りました。

「太陽の汗、月の涙」。金と銀を指す南米インカ帝国の言葉です。太陽が自ら流した汗が地上に落ちて金となり、月が夜寂しくてこぼした涙が銀となった……。額に汗して働き、豊かな感情を抱いてこそ真に価値ある人生だと諭すようです。

最後は『be』編集部でした。「愛の旅人」はゲバラや啄木など、「うたの旅人」は「なごり雪」「故郷」「神田川」など、「映画の旅人」は「東京オリンピック」や「日本のいちばん長い日」を書きました。これまで取材した国は71カ国、著書は22冊です。講演はこの7~8年、1年間に100回を超えます。

モットーとしてきたのが「本業ジャーナリスト、副業会社員」です。新聞社に入社してもそのままジャーナリストになるわけではありません。精神を忘れればただの情報会社の会社員です。僕は、左遷されたときは給料を取材費に充て、新聞に書けない分は本や雑誌に、さらには講演会を開いて語り続けてきました。これからは「本業」だけになり、一介のフリージャーナリストとして書き、話し続けます。

退職の時期が、朝日新聞の危機にちょうど重なってしまいました。長年暮らした社がひどい状況に陥ったときに離れるのは忸怩たる思いがあります。

ここまで書いたとき、故郷下関で姉と暮らしている母親の死の連絡が入りました。92歳です。認知症は少し見られましたが、3週間前に実家に帰ったときは昔話などもしていました。今月に入って寝ている状態が長くなり、今朝未明に寝たまま息を引き取ったということです。僕が2歳のとき離婚し、以後は高校の数学教師をしながら女性の手一つで僕と姉を育ててくれた母です。今から下関に帰ります。
写真
写真=長崎の漫画家、サランちゃんこと西岡由香さんが15年以上前に描いてくれた僕の「肖像画」です。海外取材のときの定番の服装である緑のベスト(ベトナムで1991年に購入)を着て、ペンを持つ手を高らかに挙げる姿。ジャーナリストとしての戦闘態勢です。

周りにはコスタリカのノーベル平和賞受賞者アリアス元大統領、アメリカでたった一人で闘ったバーバラ・リー議員、ピースボートの面々や流浪民族ロマの幌馬車も見えます。縦75センチ、幅55センチ。というよりも、新聞紙を見開いた大きさと言った方がわかりやすいかもしれません。
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