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個人的な話

遺品の中に見つけた一枚の写真

2014.9.16

65歳の誕生日が、母を火葬する日となりました。棺に入れられた母は、安らかな寝顔でした。昨日、純白のお骨となりました。

遺品を整理していたら、文箱から見知らぬ男性の写真が出てきました。たくましい軍服姿を見て、ああ、この人かと思いました。数年前、実家に帰ったときに、ふと母が語りました。若いころ結婚したいと思った人がいたけど、南方の戦線に行く途中、輸送船が沈められてしまった、京大出で尊敬する人だった、と。

戦後に仲人により結婚して僕と姉が生まれましたが、僕が2歳のとき離婚しました。その理由を深くは聞いていませんが、尊敬できなかった、という言葉が耳に残っています。生涯のパートナーは互いに尊敬できる相手にしたいというのは、僕が結婚したときに思ったことでもあります。ああ、母の血を受け継いでいるのだなと、改めて思いました。

2人の幼い子を抱えて、母は以後、結婚前に勤めていた高校の数学教師に戻って、女性の手一つで僕と姉を育ててくれました。僕自身は覚えてはいませんが、僕は小さいころ職員室で育てられたそうです。母が僕をおぶって学校に出勤し、授業のさいはほかの先生が面倒を見てくれたと言います。

戦後まもない昭和20年代、離婚した女性がどれほど世間から冷たい目で見られたか、まして学校に赤ん坊を連れてくることが、他の先生からどんな冷たい目で見られたか、想像に難くはありません。ただ、温かい心をもった先生たちに、僕は育てられたのでした。その話を母から聞いたことさえありません。ずっとあとになって、同僚の先生から「あのころは……」とうかがって初めて知ったのです。

母は学校の勤務が終わったあとは、自宅で数学の熟を開いていました。1回の教室で20人くらいで、一晩に2~3クラス教えていました。退職した両親が健在だったし2人の子を抱えて、教師の給料だけではやっていけなかったのでしょう。昼も夜も休日も働いていました。僕にとって母は、母でもあり父でもありました。

もう一枚、母が見知らぬ男性とうれしそうに寄り添っている写真が出てきました。姉によると、高校の同僚教師だったとのことです。僕が小学生のとき、母はこの人と恋愛し再婚を考えたというのです。そのころ母はときおり、うちの自分の書斎の机に突っ伏して、あるいは家の外に出て玄関の街灯の下で、泣いていました。

僕はなんと声をかけていいかわからず、泣いている姿を見ながら泣き終わるまでじっとうつむいて立っていることしかできませんでした。思えばそのころ、再婚していいかと母が僕に聞いてきた記憶があります。僕はわけもわからないまま呆然としていただけでした。もしかして、それがきっかけで母の幸せを絶ってしまったのかと思うと、哀しくてなりません。

齢90歳を過ぎて、母に来る年賀状も少なくなりましたが、いまだに高校の教え子が下関の自宅に訪ねてきて、生徒に本当に心から慕われたのだと知らされました。葬儀を公開ですれば多くの人がお悔やみに来られるのだと思います。しかし、遺言に沿って家族のみで静かに葬儀をとり行いました。戒名は、すでに教え子のお坊さんがつけてくれていました。「慈教院釋浄美」です。遺言は、もう10年以上も前ですが、乳がんの手術をしたさいに書いていました。

亡くなる4日前の午後、ベッドに横になったまま突然、姉に「私、あの世に行くからね、サイナラ~」と明るい声で叫んだそうです。逆境でも明るい母でした。最後の瞬間まで。

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