Song Stories

日本

辛い我が身を投影した「かなりや」

資産家の家に生まれて学生時代から詩人として注目された西條八十。しかし、資産は兄が持ち逃げした。生活のため出版社で英語雑誌を編集し、小料理屋の娘と結婚して天ぷら屋を経営した。長靴をはいて魚河岸に買い出しにも行った。

出版社を訪ねてきたのが雑誌『赤い鳥』を主宰する鈴木三重吉だ。当時の子どもは学校で文部省の唱歌しか習っていなかった。純真な情緒を育む「童謡」を広めたいので詩を書いてくれ、と鈴木は説いた。

10月の午後、西條が赤ん坊を抱いて上野公園を散歩していると12、3歳のときの記憶が浮かんだ。クリスマスに行った教会で、天井のくぼみの電球が一つだけ点灯していなかった。翌年のクリスマスでも、それは消えたままだった。

多くの電球の中で一つだけ置き去りにされている。多くの鳥がさえずる中で歌うのを忘れた一羽の小鳥を見るような気がした。それを思い出して書いた詩が「かなりや」だ。

西條は天ぷら屋のほか兜町の株屋に勤めて株の売買もしていた。本来やりたい詩作に励まずカネまみれになった自分が「唄を忘れたかなりや」に重なった。今の自分を棄てたい。歌詞の「うしろの山に棄てましょか」は心の声だった。

一方で、やがて夢がかなうかもしれないという思いがあった。かすかな期待で最後の4番の歌詞を「月夜の海に浮べれば 忘れた唄を想ひだす」とした。

『赤い鳥』の専属の作曲家だった成田為三が曲をつけ、1919(大正8)年に詞と曲が掲載された。ちょうど今から100年前である。曲のついた童謡は、この作品が初めてで「わが国最初の新芸術童謡」と言われた。

『浜辺の歌』の作曲者でもある成田は、4分の2拍子で心にしみこむ流麗なメロディーにした。しかし、4番だけは8分の3拍子に変えた。弾むような調子で本当に夢がかなうような気分にさせた。

歌は大評判となった。大正ロマン、大正デモクラシーの時代だ。修身の教科書のような唱歌と違い、伸び伸びと自由に歌えて幻想的な夢をかきたてる童謡は、瞬く間に子どもたちの間に広がった。西條はこの歌で詩人として自立した。

数年後、西條が埼玉県の小学校で童謡について講演したあと、子どもたちがこの歌を歌った。生活に追われて苦しかった20代を思い出し、彼は両手で顔を覆って泣いた。

西條は戦時中に『同期の桜』や予科練の歌など軍歌をつくった。一方で沖縄のひめゆり学徒隊がひもじい思いを耐えて壕の中で歌った『お菓子と娘』も彼の作品だ。彼の詩に共通しているのは「励まし」である。

「金糸雀(かなりや)」
西條八十作詞
成田為三作曲

唄を忘れた 金糸雀は
後ろの山に 棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
背戸(せど)の小薮(こやぶ)に 埋(い)けましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
柳の鞭(むち)で ぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう

唄を忘れた 金糸雀は
象牙の船に 銀の櫂(かい)
月夜の海に 浮かべれば
忘れた唄を おもいだす





小鳩くるみ   かなりや
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