Song Stories

日本

懸命に働く母を歌った「ヨイトマケの唄」

「こんにちは赤ちゃん」の梓みちよさんが1月に亡くなった。「私がママよ」の詞から、日本の母親の呼び方が「ママ」に替わったと言われる。それまでは「母ちゃん」だった。翌1964年に「母ちゃんのためならエンヤコラ」と歌ったのが美輪明宏だ。

福岡県の産炭地、筑豊の小屋で彼がシャンソンを歌ったときのこと。石炭の粉ぼこり、穴だらけの舞台。空しくやけっぱちで歌ったが、足元まで鈴なりになった人々の顔を見たとき、言いようのない戦慄を感じた。

炭鉱労働者がなけなしの金でチケットを買い、歌を聴きに来ている。この人たちが命を削って得た金で鼻歌を歌っている。そんな自分が許せなかった。贅沢に着飾った孔雀のような衣装が惨めに思えた。

その後、土門拳の写真展で筑豊の子どもたちの姿を見た。人々が悲しみ苦しむとき、魂深く歌える歌を作りたいと思った。

三輪が長崎の小学校2年のときの同級生に、家が貧しいヨシオがいた。参観日に彼の母親が来た。着飾った他の母親たちと違って、半天にモンペ姿だ。手拭いでヨシオの汚れた顔を懸命にぬぐうその母親が、美輪の目には最も母親らしく見えた。

ヨシオの母親が働く工事現場に行ってみた。地ならしの重しの綱を引っ張るとき、母親は「ヨシオのためならエンヤコーラー」と力いっぱい叫んだ。

歌手になりたての銀座で、三輪がやくざに絡まれた学生を助けると、満洲から引き揚げた戦災孤児だった。クズ屋をして彼の学資を稼いだおじいさんは、リヤカーを引きながら死んだ。彼は苦学して東大で建築を学んだ。

次に会ったとき、その学生は念願のエンジニアになっていた。彼の工事現場を訪ねたとき、長崎のヨシオが頭に浮かんだ。「道すがら胸にあふれこぼれていたもの」を帰宅してすぐ詩に書いた。彼とヨシオを頭に浮かべて作詞、作曲したのが「ヨイトマケの唄」である。

シャンソン喫茶で歌うと、客は最初、力仕事に携わる労働者への軽蔑、優越感からか、卑しい顔をして笑った。それが最後は涙に変わった。テレビで歌うと開局以来の反響で、投書2万通が届いた。

私が朝日新聞長崎支局の記者だったとき、夜の長崎の商店街にポツンと座っていた占い師を取材したことがある。戦争で両手首を失った老人だ。彼は15歳だった美輪に、上京すれば成功すると占った、と言う。

そのあと彼は手のない腕でぜいちくをジャラジャラ振り、「あんたは間もなく転勤になる」と告げた。その直後、私に辞令が出た。転勤先は筑豊だった。炭鉱の閉山で失業者があふれた街で、私もまた彼らのための記事を書いたのだった。





ヨイトマケの唄
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