Song Stories

日本

自然の中で人間を鼓舞する「雪山賛歌」

正月の雪山でスキー合宿しようと、後に第一次南極観測越冬隊長となる京都大学の学生、西堀栄三郎は考えた。1927(昭和2)年、東大の学生を誘い4人で新潟県に行ったが雪がない。群馬県嬬恋村に移るとこんどは猛吹雪になった。

旅館の薄暗い部屋から出られず、退屈まぎれに山岳部の部歌を作ることにした。メロディーは米国民謡「いとしのクレメンタイン」だ。旧制三高の英語の授業で米国人の教師に教わり、西堀の愛唱歌になっていた。

一番の「雪よ岩よ われらが宿り 俺たちゃ町には 住めないからに」は西堀が作った。あとはみんなで思い思いに歌詞を手掛けた。だれかの上の句と別の人の下の句をつなぎ合わせたものもある。20番以上が出来上がった。

西堀はそれから20年近くこの歌を忘れていた。終戦から約5年後、上高地の宿の2階の部屋にいると、外から「雪よ岩よ…」の歌が聞こえる。見知らぬ人が歌っていた。また別の歌声が聞こえた。歌っていたのは合宿でいっしょに作詞した東大の仲間だ。

この歌が広まった理由はやがてわかった。合宿で作られた歌詞が山岳部の日誌に挟まれ、作者不詳のまま寮歌集に加えられて歌い継がれていたのだ。

広く歌われるようになったのはダークダックスのおかげだ。ゲタさんこと喜早哲さんがまだ慶応大学の学生だったとき、志賀高原にスキーに行った。バスの女性車掌が切符を回収しながらこの歌を口ずさんだ。

喜早さんは「いとしのクレメンタイン」は知っている。でも「雪山賛歌」を聞いたのはこれが初めてだ。知人に調べてもらいダークダックスとして9番までレコードに吹き込んだのは1958(昭和33)年だ。作者不詳のままだった。

作者を明らかにしたのは評論家の桑原武夫だ。西堀と同期の京大学士山岳会の隊長である。著作権を主張して印税を山岳会の遠征費に充てようと考えた。西山本人は「誰が作ったかわからずにひそかに聴いて、一人でほほえんでいたかった。永久に詠み人知らずで欲しかった」と書いている。

「いとしのクレメンタイン」は西部開拓とゴールドラッシュ時代のアメリカをテーマに1884年、学生歌として作られた。金鉱を探す父と暮らしていた娘のクレメンタインが、足を滑らせて急流に飲み込まれ死んだ。後に残された男が彼女の名を呼んで嘆く内容だ。

全米に広まったきっかけは映画だ。OK牧場の決闘を素材としたジョン・フォード監督の名画『荒野の決闘』の主題歌となった。

人々の口から口を伝い、文字通り海を越えて意味も変わった。力強く歌って寒さを吹き飛ばそう。

雪山讃歌 ダーク・ダックス
Copyright©Chihiro Ito. All Rights Reserved. サイト管理・あおぞら書房