Song Stories

ドイツ

自由と喜びを歌う「第九交響曲・歓喜の歌」

演奏後のカーテンコールは4度、拍手は20分間鳴りやまなかった。オーケストラの団員も総立ちの聴衆も、涙を流し右腕を伸ばしてVサインを掲げた。1989年12月14日、東欧革命のさなかのチェコのプラハで開かれた革命勝利記念コンサートは、文字通り歓喜に包まれた。

前から3列目で聴いていた私も立ち上がって拍手しながら、目の前の感動的な光景をメモした。メモ帳に涙がポタポタこぼれた。

それから10日後のクリスマス・イブをはさみ、崩壊した直後のドイツの「ベルリンの壁」の両側、東西ベルリンで相次いで行われたクリスマス・コンサートでも、この歌が歌われた。指揮したバーンスタインは、フロイデ(歓喜)をフライハイト(自由)に言い換えて歌うよう、合唱団に指示した。

合唱団の中央で歌ったのは日本人だ。当時、ミュンヘン放送合唱団員だった頃安利秀(ころやす)さん。帰国して徳島県鳴門市にある鳴門教育大学の声楽教授となった。この鳴門市こそ、日本で初めて合唱付き「第九」の全曲が演奏された地である。

第一次大戦で日本は連合国の一員として、中国の青島でドイツと戦った。そのとき捕虜となり鳴門市の板東俘虜収容所に入れられたドイツ兵の中に、軍楽隊の指揮者や音楽家がいた。彼らが捕虜を指導して素人オーケストラをつくり1918年、収容所で「第九」が演奏されたのだ。合唱は男声ばかり80人だった。

収容所で芸術活動ができたのは、所長の松江豊寿大佐が捕虜を人道的に扱ったからだ。松江は会津藩士の子で、明治維新のさいには賊軍として故郷を追われた。その体験から敗北者に心を寄せ、歌詞にある「すべての人間が兄弟となる」を地で行くような収容所にしたのだ。

松江が終焉の地に選んだのは東京都狛江(こまえ)市だ。その市民で指揮者の榊原徹さんはドイツ留学中にベルリンの壁の崩壊に遭い、あのクリスマス・コンサートで「第九」を聴いた。「うたごえ新聞」専従10年の大熊啓さんも、そして私も、同じ狛江市民だ。「音楽の街」を誇る狛江市は、自由を求める人の街でもある。

今や、この歌は本場ドイツでなく、日本で最も頻繁に歌われる。年間に約200回も「第九」が演奏される国なんて、日本以外はない。その3分の2が年末に集中する。

「第九」を作曲したとき、ベートーベンは耳が聞こえなくなり、家庭的にもさみしく悲哀のどん底にいた。「苦悩そのもののような人間が、自ら歓喜を創造して世界に贈り物とした」(ロマン・ロラン)

歌が今、この時期、日本全国に流れている。
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